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歴史雑感

「世界史をもう一度」の管理人big5が、歴史に関連する日々の雑感を書いています。

真田丸 第32回 「応酬」

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真田丸 第32回 「応酬」

秀吉亡き後、さっそく後継者の主導権争いが勃発しました。

本多正信や阿茶局に「天下を取りなされ」と薦められていますが、煮え切らない様子の家康でしたが、伊達政宗との縁組など、着々と準備を重ねています。家康はどう考えていたのでしょうか?

対する三成ですが、人心掌握という面では完全に失敗していますね。今回描かれているだけでも
・寧が聞いている場所で、秀吉の遺骸をカメに入れて塩漬け保存する、という話をする。
・家康に対抗して開いた宴会で、ただでさえ参加者が少ないのに、本人は中座してしまう。
・朝鮮から帰国した加藤清正をねぎらうつもりが、逆に神経を逆なで。その後の慰労会も中座。清正が引き留めても強引に中座。

三成は太平の世の中で事務方を司ることに関しては、本人も自認しているとおり才覚があると思いますが、清正のセリフ

「おまえには情がない」

のとおりで、家康に対抗するための味方集めをしたくても、人を集めるノウハウがないから集まらない、んですね。
おそらく、三成本人は情よりも理論や豊臣家への忠誠で動く人間なので、他の人間も同様の論理で動く、と思っているんだと思います。なので、秀吉の遺言に何と書かれているかとか、家康から誓いを取った、などというポイントを重視するわけです。
清正との会話も、豊臣家を盛り立てていこうという意思は共通しているわけですから、清正の言ったことに
「その通りだ!」
と同意して、その後の飲み会も清正と肩を組みながら飲めばいいわけです。それができないのが、三成の人心掌握能力の限界なんだと思います。大谷吉継が言うように
「治部一人では徳川内府には対抗できない」
のは、この辺の人間性の違いが大きかったのかもしれません。


このように、関ヶ原の戦いに至るまでの経過や、関ヶ原の戦いでの西軍敗北の原因として、石田三成と徳川家康の人心掌握能力の差、があげられることが多いです。
確かに、そのような面はあると思います。
ただ、私個人の私見としては、三成個人の性格というよりも、もっと大きな歴史の流れの影響力が強いのではないか、と思います。

独裁者が世代交代した場合

前独裁者の側近たちはたいてい失脚する

というのが、古今東西共通の法則なんじゃないかと思います。

側近たちが権力をふるえる理由は、彼らが独裁者の近くにいるからです。つまり、

側近の権力基盤=独裁者の権力

と言えます。なので、独裁者が死去した場合、側近はその権力基盤を丸ごと失うわけです。側近らが権力基盤を保持したいのであれば、新たな独裁者の側近になるか、自分が独裁者になるぐらいしか、方法はないわけですね。そして、歴史上でそれを成功させた人物は、あまりいないのではないか、と思います。

さて、次回は老獪な家康の政治工作に、我慢できなくなった三成がついに暴発してしまう回になるようです。次回も楽しみです!

<今後の気になるポイント>
1.薫の出自詐称はいつまで続くのか?本人からはとても言い出せない状況。
2.きりさんはいつ信繁の側室になるのか?今のところは、正室も迎えたばかりでそんな気配まったくなし。きりさんの位置づけも、キリシタンになりたいと言い出したりと、今後、話にどう関与させていくのか?
3.出浦さんは、有馬温泉で湯治中ということでした。第二次上田合戦の時には復帰かな?
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